
味噌は長く人生は短し
はるか昔、人々は大豆を発酵させて、味噌をつくった。微生物の力を借り、大豆とはまるで違う味わいとおいしさを醸し出す味噌。
一体、誰が考えたのだろう。ロマンは広がるばかり。味噌は、存在自体が奇跡であり、さらに美しさと気高さを兼ね備えた芸術作品といえるだろう。
「芸術は長く人生は短し」ということわざの通り人の一生は短いが、優れた芸術作品は、長く世に残る。世界中には、後世にわたり語り継がれる名作が存在するが、「味噌の文化」は、千数百年の時をかけ、日本人が英知を結集してつくった無形の「作品」ともいえるだろう。
味噌をつくる人も「アーティスト」、その味噌を調理する人も、食べる人も、「アーティスト」。味噌を想うと、自然と心が落ち着き ”幸せ“を感じるのは、DNAに味噌が染みついているから。
この「芸術作品=味噌の文化」は、これからどう進化していくのだろう。

味噌史を振り返ってみよう
味噌の起源は、古代中国の「醤(しょう・ひしお)」とされ、中国大陸や朝鮮半島を経て、飛鳥時代ごろに日本に伝来し、独自に発展していったという説が有力だ。しかしながら、味噌がいつの時代から存在していたかは定かではなく、縄文時代の生活跡から、どんぐりでつくった「縄文味噌」と呼べるような食品も見つかっている。
【平安時代】味噌は高級官僚の月給や贈答品であり、庶民には手の届かない贅沢品だった。当時は、調味料ではなく、そのまま食べたり、つけたりして食べられていた。また、薬としても使われた。
【鎌倉時代】「粒味噌」をすりつぶした「すり味噌」が使われるようになり「味噌汁」が誕生した。武士や僧侶は「一汁一菜」を実践。最古のおかず味噌「金山寺味噌」が伝わったのもこの時代だ。
【室町時代】「味噌汁」が庶民に浸透し、味噌料理が多くつくられるように。大豆の生産量が増え、味噌の自家醸造も定着していく。干ばつや飢饉の際は、長期保存が利く味噌が重宝された。
【戦国時代】武将たちは戦闘能力を左右する「兵糧」に関心を持ち、特に米と味噌を大切にしていた。戦には「味噌玉」を携行。武田信玄は「信州味噌」の基盤をつくり、伊達政宗は日本初の味噌工場「塩噌蔵」を建てた。
【江戸時代】商人文化が盛んになり、味噌はなくてはならない存在に。三河や仙台から江戸に味噌がどんどん運ばれた。また、料亭が増え、味噌料理が洗練されてく。味噌を題材にした落語や川柳、ことわざも多く誕生した。
【明治・大正】文明開化で西洋文化が取り入れられるようになるが、農村では変わらず自給自足の生活で、味噌も自家醸造。大正に入ると大工場が建設され、生産量が増えていく。味噌汁は「家庭の味」として定着した。
【昭和】スーパーマーケットができると、味噌は量り売りから小袋やカップ売りに変化。だし入り味噌やインスタント味噌汁も登場。
【平成】味噌の効用が科学的に証明され、スーパーフードとしてブームになる。海外のシェフも味噌を隠し味として使うように。液味噌や粉末味噌も登場。戦国武将が愛用した 「味噌玉」 をアレンジした 「みそまる」 が誕生。 味噌汁のつくり置きが注目される。味噌をテーマとした居酒屋やレストランが多数出店される。
【令和・・・未来】味噌の歴史をつくるカギを握るのは、私たちの生活にある。

味噌伝道師として
「味噌」というワードを紐解くと、そこには日本人の心や文化が息づいていて、改めて、味噌の素晴らしさ、大切さを知ることができます。科学的にいえば、味噌は「微生物の芸術」、文化的にいえば、味噌は「人々の芸術」といえるのではないでしょうか。
あの有名なピカソは、人類史上で最も「多作」な芸術家と呼ばれ、一日に4~5作品という驚異的なペースで油絵や版画、彫刻などを制作したそうです。そう考えると、毎日、味噌汁をつくる人々が国内で1億人いると考えると、驚異的な数になります。令和の時代、味噌はどんな作品に変化していくのか、楽しみです。
先日、「発酵の神様」とも呼ばれる小泉武夫先生に「みそまるは一つの文化になったね」という言葉を頂戴し、これほどうれしいことはありません。みそまるは、私の生活の中から自然に生まれたものです。人々の生活の中に、味噌の文化がある…。その気づきを伝えていくことが、私の使命なのかもしれません。
MISODO