関東大震災、人々を支えた味噌

地震の被害

1923(大正12)年9月1日に発生した「関東大震災」。相模湾を震源地とするマグニチュード7.9 の大地震による死者は10万5000人に上り、東京や神奈川を中心に甚大な被害をもたらしました。

被災地では、地震発生日の夜から食料確保や炊き出しなどを進めるものの被災者全員に行きわたるほどの量はなく、国内外から義援金や救援物資が続々と送られました。

信州味噌、越後味噌、佐渡味噌が被災地へ

当然、関東エリアの味噌製造業者も壊滅的な打撃を受け、当時の食生活に欠かせない味噌の供給が断たれてしまいます。そのピンチを救ったのが、信州味噌、越後味噌、佐渡味噌でした。

今のように物資が豊かでなく、インフラも整っていなかった時代の未曾有の災害。味噌は、単に栄養源としてだけでなく、人々の心の支えになったのでしょう。

信州味噌

長野では、設備の拡大と機械化によってすでに味噌の大量生産が行われており、関東への移出も増えていたため、すぐに救援物資として「信州味噌」が被災地へ送り込まれました。信州味噌は、淡白で上品な味わいと関東人に大好評。以来、信州味噌は関東地方に定着し、現在、全国の味噌出荷量のおよそ50%を占めるほどに市場を拡大しています。

好評だった理由の一つに、信州味噌は豊かな風味に仕上がる「天然醸造」であったことが挙げられます。信州は湿度が少ない冷涼地で、昼夜の温度差が大きい風土が醸造に最適とされています。

越後味噌

「越後味噌」は、米麹粒の残った「浮き麹味噌」が主流ですが、戦国時代に上杉謙信が北条氏を攻めて、上総・下総方面に入った際、野田地方で味噌のつくり方を兵に習得させ、越後の農民に伝えたのがはじまりとされています。越後には豊富な大豆と米と塩があったため、その後、多くの味噌製造業者が誕生。関東大震災の際は、業者が協力し合い大量の味噌を東京へ。これを契機に、取引の基盤ができ、越後味噌は一躍名を知られることとなりました。

佐渡味噌

同じ新潟県といえど、まったく違う気候や独自の文化をもつ佐渡島では、長期熟成型の米赤味噌(こし味噌)が主流で、重厚な香りが特長です。同様に、救援物資となったことをきっかけに関東地方に出荷が増えました。

味噌は多めにストックするのが◎

政府の地震調査委員会の発表(2014年)によると、首都直下地震が起こる可能性は「今後30年で70%」。最近は震度5クラスの地震も多発しており、いつ何が起きてもおかしくない状況です。日頃から備えや意識を持つことで、災害時の混乱を防ぎ、被害を最小限に抑えることができます。

「東日本大震災」では、物流の混乱等により、満足に食料調達できたのは3日目以降だったという地域や、電気や水道の復旧に1週間以上もかかった地域もあったといいます。

ライフライン(電気、ガス、水道)が停止する場合を想定し、水と食料、熱源(カセットコンロ等)は、最低3日分、できれば1週間分は備蓄したいもの。飲料水や調理に使う水は、1人1日約3ℓ(湯せん、食器洗浄水は別)が目安とされています。

備蓄する食料品は、「主食(炭水化物)+主菜(タンパク質)」の組み合わせを考えることが大事。そう、まさに、ごはんと味噌汁です。保存食で栄養価にすぐれた味噌は、災害時にも大活躍。

普段から少し多めに味噌を買っておき、使ったら使った分だけ新しく買い足していく「ローリングストック」を習慣化することをおすすめします。

【参考文献】
『みそ文化誌』(発行/全国味噌工業協同組合連合会・中央味噌研究所、編集/みそ健康づくり委員会)
『緊急時に備えた家庭用食料品備蓄ガイド(平成26年)』(発行/農林水産省大臣官房政策課食料安全保障室)

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